ブラタモリ#84高野山の町「高野山はなぜ”山上の仏教都市”に?」
高野山シリーズの3回目。
標高約800mの山上に東西4キロ、南北3キロに及ぶ平らな土地がある
珍しい地形。かつては、麓から徒歩で6時間かかった。
高野山は、真言宗の開祖・空海が816年に開いた日本を代表する仏教都市に
発展。人口2300人のうち、3人に一人がお坊さん。多くの寺院が密集する。
★高野山金剛峯寺は、山全体が境内で、その中に117の塔頭寺院がある。
金剛峯寺は、総本山。全体を統括する場所。日本で唯一お寺の中に町がある。
なぜ、高野山は都市になることが出来たのか、解き明かしていく。
高野山は人が生きていくために必要ないくつかのものに、奇跡的に恵まれていた。
★人の暮らしに欠かせない”水”。 川が流れている。
・今は暗渠になっているが、メインストリートの下を「御渡川(おどがわ)」が
流れている。高い山の上にもかかわらず、奇跡的に豊富な水に恵まれている。
「不動院」というお寺に行ってみると、池があり、豊富な水がある。
高野山のお寺では、伝統的に「取り水」と言って裏の谷から水をとっている。
・高野山の平らな土地には、周囲の山から内側に向かって多くの川や谷があり、
山の上に降った雨が、中心に集まるようになっている。
さらに集まった水が、町の中にとどまり続けられるように「泥岩」という
水を通しにくい岩で出来ており、下に浸み込むのを止めている。
・世俗から離れた高い山の上にありながら水に恵まれ、平地があり、仏教都市
としてはこの上ない場所。空海は、若い時の修行時代に見つけていた。
★生きていくための食べ物は、どうやって調達していたか。
・金剛峯寺へ。建物内の壁は土を使っていない。金箔で貼られている。
けがれなきようにと、人が踏んだものを頭の上に置かないということ。
・庫裡(台所)は200畳の広さがあり、「二石の釜」と言われる200人分
の食事が作れる釜がある。
・高野山には、食料が常に山の麓から集まってくる仕組みがあった。
高野山領があり、年貢米を集めていた。(石高は、2万1300石)
野菜などの食量は、周辺の村の人達が寄進として運んできた。信仰心から
納められた。(信仰の力)
・確保した貴重な食べ物を大切に食べるため、特産品が開発された「高野豆腐」。
★高野山は、出生率0で、後継者が生まれない。どうやって人口を維持してきたか。
・住み込みながら学べる寮があり、平安時代からお坊さんを目指す学生が
全国から集まってきた。こうした長屋は「会下(えか)」と呼ばれ、今でも
客室や寮として使われている。
・学生たちをどうやって集めたか。集まる仕組みが作られていた。
お寺の門前に、大名家の家紋がついている提灯が掲げられている。
お寺と大名家が宿坊契約を結んでおり、全国から学生が来るルートに
なっていた。
★もう一つ、大きな問題”火災”から、守る。
・檀上伽藍には、20近い歴史的建物が密集している。
中でも「御影堂」は、1000年以上守られてきた空海の肖像画があり、
限られた人しか入れない神聖な場所。「御影堂」の周りには、建物を守るために、
地下から噴水のように水が噴き出し、建物を包み込む設備が施されている。
昭和元年に、御影堂の隣にある金堂が全焼。炎が、御影堂に迫った。
柱の1部を焦がしたが、幸い燃えなかった。その痕跡が今もある。
・火災は失火だけでなく、高い山の上にあるため、落雷によるものがある。
屋根は、冬の寒さが厳しいので、昔は、瓦葺でなく、檜皮葺(ヒノキの皮)
で葺かれ、火災に弱い。
・中門は、2年前170年ぶりに再建された。足掛け6年。高野山にある
木を探して使い、建てられた。案内をしてくれている棟梁の手によるもの。
燃えては再建しの繰り返しで、今ようやく檀上伽藍のすべての建物がそろった。
いつもどこかが無かった。奇跡的にそろっている時に、タモリさんたちは、
訪れることが出来、幸運という。
・火災に対する独自のシステムがある。
お寺が独自に作ったもので、高野山に張り巡らされている「防火専用の
地下水路」がある。総延長8キロ、いつでもどこでも瞬時に放水できる。
御影堂は、特に強いもので守られている。(水の壁)
こうして、1200年の歴史を守っている。
※人々の強い信仰心。歴史を守る強い意志。高野山が山上の仏教都市として
今もその姿を保ち、我々に見せている。人々が敬愛する由縁。
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標高約800mの山上に東西4キロ、南北3キロに及ぶ平らな土地がある
珍しい地形。かつては、麓から徒歩で6時間かかった。
高野山は、真言宗の開祖・空海が816年に開いた日本を代表する仏教都市に
発展。人口2300人のうち、3人に一人がお坊さん。多くの寺院が密集する。
★高野山金剛峯寺は、山全体が境内で、その中に117の塔頭寺院がある。
金剛峯寺は、総本山。全体を統括する場所。日本で唯一お寺の中に町がある。
なぜ、高野山は都市になることが出来たのか、解き明かしていく。
高野山は人が生きていくために必要ないくつかのものに、奇跡的に恵まれていた。
★人の暮らしに欠かせない”水”。 川が流れている。
・今は暗渠になっているが、メインストリートの下を「御渡川(おどがわ)」が
流れている。高い山の上にもかかわらず、奇跡的に豊富な水に恵まれている。
「不動院」というお寺に行ってみると、池があり、豊富な水がある。
高野山のお寺では、伝統的に「取り水」と言って裏の谷から水をとっている。
・高野山の平らな土地には、周囲の山から内側に向かって多くの川や谷があり、
山の上に降った雨が、中心に集まるようになっている。
さらに集まった水が、町の中にとどまり続けられるように「泥岩」という
水を通しにくい岩で出来ており、下に浸み込むのを止めている。
・世俗から離れた高い山の上にありながら水に恵まれ、平地があり、仏教都市
としてはこの上ない場所。空海は、若い時の修行時代に見つけていた。
★生きていくための食べ物は、どうやって調達していたか。
・金剛峯寺へ。建物内の壁は土を使っていない。金箔で貼られている。
けがれなきようにと、人が踏んだものを頭の上に置かないということ。
・庫裡(台所)は200畳の広さがあり、「二石の釜」と言われる200人分
の食事が作れる釜がある。
・高野山には、食料が常に山の麓から集まってくる仕組みがあった。
高野山領があり、年貢米を集めていた。(石高は、2万1300石)
野菜などの食量は、周辺の村の人達が寄進として運んできた。信仰心から
納められた。(信仰の力)
・確保した貴重な食べ物を大切に食べるため、特産品が開発された「高野豆腐」。
★高野山は、出生率0で、後継者が生まれない。どうやって人口を維持してきたか。
・住み込みながら学べる寮があり、平安時代からお坊さんを目指す学生が
全国から集まってきた。こうした長屋は「会下(えか)」と呼ばれ、今でも
客室や寮として使われている。
・学生たちをどうやって集めたか。集まる仕組みが作られていた。
お寺の門前に、大名家の家紋がついている提灯が掲げられている。
お寺と大名家が宿坊契約を結んでおり、全国から学生が来るルートに
なっていた。
★もう一つ、大きな問題”火災”から、守る。
・檀上伽藍には、20近い歴史的建物が密集している。
中でも「御影堂」は、1000年以上守られてきた空海の肖像画があり、
限られた人しか入れない神聖な場所。「御影堂」の周りには、建物を守るために、
地下から噴水のように水が噴き出し、建物を包み込む設備が施されている。
昭和元年に、御影堂の隣にある金堂が全焼。炎が、御影堂に迫った。
柱の1部を焦がしたが、幸い燃えなかった。その痕跡が今もある。
・火災は失火だけでなく、高い山の上にあるため、落雷によるものがある。
屋根は、冬の寒さが厳しいので、昔は、瓦葺でなく、檜皮葺(ヒノキの皮)
で葺かれ、火災に弱い。
・中門は、2年前170年ぶりに再建された。足掛け6年。高野山にある
木を探して使い、建てられた。案内をしてくれている棟梁の手によるもの。
燃えては再建しの繰り返しで、今ようやく檀上伽藍のすべての建物がそろった。
いつもどこかが無かった。奇跡的にそろっている時に、タモリさんたちは、
訪れることが出来、幸運という。
・火災に対する独自のシステムがある。
お寺が独自に作ったもので、高野山に張り巡らされている「防火専用の
地下水路」がある。総延長8キロ、いつでもどこでも瞬時に放水できる。
御影堂は、特に強いもので守られている。(水の壁)
こうして、1200年の歴史を守っている。
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2017-09-25 14:00
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