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ブラタモリ#75名古屋「尾張名古屋は、家康でもつ?」

尾張と言えば、信長、秀吉が浮かび、家康は、三河の出身なのに

なぜ、家康でもつのか。2回にわたり、紹介される。

室町時代から、尾張の中心は清須だった。清須は、名古屋から

6キロ北にある尾張の中心地だった。

1610年、家康は、荒れ地だった所に新たな城下町を作った。

名古屋城は、家康が造った城。名古屋は、城も町も家康がつくった。

★名古屋城本丸

延床面積でいうと、日本一の城。 高さ36、1m。

現在の天守閣は、1959年に再建されたもの。

金のシャチホコが、有名。江戸時代に造られたシャチホコのウロコは、

2つのシャチホコで、430枚。純金200kg分。

江戸時代から昭和にかけて、3回ぐらいウロコが盗まれた。





★本丸の東側へ。

本丸から突き出ている「搦手馬出」(からめてうまだし)という空間がある。

「馬出」とは、門の前を堀や土塁などで囲み、守りにも攻めにも強くした

空間。・・強い城を造るのがねらい。

搦手馬出を造っている石垣を見ると、堀の両側の石の種類が違う。

関ヶ原の戦後の豊臣氏側の勢力をそぐため、「天下普請」を行った。

費用は、担当する大名の負担とした。このため、石の種類が違う。

これが、名古屋城の強さの一つとなっている。

★もう一つの名古屋城の強さ

名古屋城は、熱田台地の縁に建っている。城の北側は、低湿地帯で、

自然の防御が出来ている。

★名古屋城のもう一つの、ねらい。

台地の縁に、「馬出」を造り、盛り土をして、馬出を広く造った。

「御深井丸」(おふけまる)という、かなり広い馬出がある。

戦後の平和の時代を見据えて、食料を一時保管したり、役立つことに

使うことを考えた。





将来を見据えてどんな町つくりをしたか。城から1キロほど南の

町の中心部へ。

★碁磐割

城下町の町割りが、1辺100mの正方形の区画になっている。

この町割りが現在でも生かされている。

町の真ん中に町人を住まわせ、武士は、その外側に住んでいた。

どの区画も、通りに面していて、家々の間口は狭く、入口が

どちらにもあり、活発化した町になった。経済的に繁栄させようとした。

碁磐割の真ん中の空いた所は、神社や寺。また閑所・集会所(共有地)にした。

現在は、タワーパーキングになっている所がある。

400年前、清須から数万人を移住させ、経済都市を造ろうとした。

閑所は、移住した町人たちの共同体を維持し、商売をしやすくし、住みやすい

城下町をつくること。清須時代の町名が今でもいくつも残っている。

★名古屋の100m道路。「久屋大通り」

碁磐通りの一番東側にある。1辺100mの幅を、そのまま生かして造った。

市民の憩いのスペースになっている。

今回は、ここまでで、次回につづく。


※家康の深慮遠望の町つくり。はたして現在は、そのような町つくりが

行われているだろうか。

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