SSブログ

ブラタモリ#76名古屋熱田「尾張名古屋は家康でもつ?」

尾張名古屋の第2回。尾張名古屋は400年前、家康が作った町。

家康は、ほとんど人が住んでいなかった細長い台地の上に、城と城下町

を一から作った。どうして家康はこの台地を選んだのか。

今回は、北の端っこにある名古屋城に対し、南の端っこにある熱田神宮から始まる。

熱田神宮は、三種の神器の一つ「草薙の剣」があり、年間700万人が訪れる。

宝物館には、貴重なお宝である掛け軸3点がある。

信長、秀吉、家康が熱田神宮に宛てた書状。時の権力者にとって

熱田神宮は、大切な神社。このため、台地の上に城と城下町を作った。


でも、もっと重要な名古屋を作った理由がある。

★東海道は、ここから三重県の桑名まで、七里(28km)の海路となる。

海の渡し場(七里の渡し)へ。

台地の南の端っこに位置する港(熱田)があったので、台地の上に

名古屋を作った重要な理由。

★濃尾平野の西側には、木曽三川と呼ばれる大きな川がある。

  揖斐川、長良川、木曽川。

東海道が陸を進むと、川幅がそれぞれ数百メートルある川を渡らなければ

ならない。このため海路になっている。

濃尾平野は、木曽三川が運んだ土砂が堆積して出来ており、300万年前から、

西側にある養老断層に向けて傾き続けている。このため、川が西に偏っている。

東側の台地の上にある名古屋と熱田は、洪水の影響を受けにくい安定した場所。

★熱田は、岬の縁にあり、地理的にも港に適した場所だったので、古くから

港が栄えていた。150mの長さがある東海地方最大の「断夫山古墳」がある。

古墳時代から、濃尾平野を代表する港だったので、有力な豪族がお墓を築いた。

家康は、熱田を名古屋の交易の港にし、経済的に発展させるのが、ねらい。

熱田宿は、東海道41番目の宿場。旅宿が多くあり、現在でも一軒だけ残っている。




★海岸から200mほど入った所から上っている。その前は、海を埋め立てた場所。

間口の狭い密集した家が並んでいる。火除けの神様として信仰される

「秋葉神社」が、所々にある。

台地の北側に名古屋城、その南側に正方形の町割りをして商人たちの商いを

し易くし、繁栄している城下町。台地の南側には、熱田の港。

台地の良い所を使って、現在までずっと繁栄している。

★どうして家康より前の時代に、ここに大きな町が作られなかったのか。

台地の長さは、およそ7kmあり、この距離が大きな町が作られなかった理由。

家康は、この距離を運河を造ることにより克服。運河により、往来が可能。

運河が、城下町と熱田を繋いだ。人工の川(運河)「堀川」。

堀川は、細長い入り江のようなもの、名古屋港の一部である。

塩水が少し混じっている。

堀川は、名古屋の発展に重要な役割を果たした。堀川で運ばれた重要な物は。

江戸時代、名古屋は、木材の巨大な集積地だった。木曽川を使って

木曽ヒノキを持ってきた。家康は、木曽を天領としていた。


※「尾張名古屋は、家康でもつ」まさにその通り。戦国時代後を見据えた

町づくり。見事としか言いようがない。

【旅行におすすめ格安航空券】

大黒屋トラベル


国内航空券トラベリスト


【スカイパックツアーズ】


格安航空券モール




コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。