ブラタモリ#74倉敷「なぜ美しい町並みが倉敷に?」
岡山県倉敷市。時代劇のセットのような風景が広がる「美観地区」。
倉敷には、江戸時代、明治、大正、戦前にかけての色々な時代の
建物500以上が残っている。年間350万人の観光客が訪れ、
美しく、懐かしい雰囲気。倉敷は、空襲を免れた。
どうして美しい町並みが生まれ、どのようにして残ってきたのか。
タモリさんが歩きながら、現地の人の案内で解き明かす。
★「倉敷」という地名は、「倉敷地」を略したもの。
「倉敷地」とは、各地の荘園から年貢などを輸送する際に
一時保管する倉庫が置かれた所。
倉敷は、岡山県南部にあり、
江戸時代には、幕領60万石の代官所が置かれていた。
倉敷は、物資が集まる場所だったため、たくさんの蔵があり、
川を使って運ばれた。
★「倉敷川」 別名「汐入川」とも。
物資の輸送に使われたこの川は、海につながっている運河。
江戸時代から、川を使って江戸や大阪に繋がり栄え、多くの
豪商が生まれた。豪商は、商売以外のやり方で富を増やしていった。
★「森田酒造場」という豪商の家に行ってみる。
森田家が酒造業を始めたのは、明治42年から。その前は、「畳表」の
問屋だったが、別のもので富を得た。それは「米」。
「米」は、倉敷川を下って瀬戸内海に出て、船で大阪の堂島へ運び、
取引をした。江戸時代は、米の取引が出来るのは認可を受けた米問屋
だけだった。なぜ畳表の商人が大量の米を入手できたか。
豪商たちは、たくさんの土地を持っている地主だった。たくさんの米を
手に入れ、富を得て、蔵を建てた。・・美しい町並みに。
★なぜ倉敷では、商家が地主になれたのか。
蔵の立ち並ぶ地は、戦国時代以前は、見渡す限り海だった。商人たちは、
お金を出して遠浅の海を埋め立てて、陸地にし、地主となった。
★なぜ倉敷の商人は、自由に新田開発ができたのか。以前あった紡績工場へ
行ってみる。堀や塀に囲まれ、御城のよう。江戸時代天領だった「代官所」跡。
代官所のある町は、城下町より自由だった。規模が大きくなく、武士も
少ないので、町人の力を借りないと、支配出来なかった。商人の力を借りる為、
商売を規制せずに自由に活動をすることを許した。このため、新田開発ができた。
★明治時代に、ここに紡績工場ができた。この工場ができたことが、
美しい町並みに大きく関わっている。
埋め立てられた土地は、塩害があり、綿花の栽培が行われた。(綿花は、塩を
吸い取るという。干拓地では、始めに植えられることが多い)。
こうして紡績業が盛んになった。
明治22年(128年前)の工場は、最先端のイギリスの技術を導入。何もかも
イギリス式。壁の煉瓦もイギリス積み。工場のノコギリ屋根もイギリス式。
ただし、屋根の角度はイギリス式では、夏直射日光が入り高温になるので、
それを防ぐためツタをはわせた。装飾と、断熱効果が抜群となり、美しい
町並みになった。
紡績業の発展で、数々の西洋建築が建てられ、町に新たな魅力が生まれた。
明治以降、14棟もできた。その極め付けが倉敷美観地区のシンボル
★「大原美術館の本館」
ギリシャ式で、昭和5年に造られた日本で最初の西洋美術館。
倉敷を代表する資産家、豪商、事業家の、大原孫三郎(1880~1943)が、
建てた。故郷を文化の町にする強い思いがあった。
こうして、江戸時代の蔵と、明治以後の近代的な洋館とが隣り合う
美しい町並みが完成した。
★この町並みがなぜ、今も残っているのか。
大原孫三郎の長男・総一郎が、昭和36年大原美術館分館を建てた。
大原美術館分館は、美観地区の端の位置にあり、周囲を城郭のような壁に
造り、鶴形山を天守閣に見立てると、城下町のような風情となっている。
この古い町並みを守るという意気込みを市民たちも受け継ぎ、
昭和43年「倉敷市伝統美観保存条例」を制定。
「美しい町並みは、残ったのではなく、残した」ものであった。
※倉敷と言えば、大原美術館を始めとして、美しい町並みが思い浮かぶ
が、それらは、人々の強い思いが守っていることが分かった。
最近、あちこちで御城や古い町並みを再建し、タイムスリップしたような
懐かしい町が多く造られている。忙しい現代人の心のオアシスとなっている。
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倉敷には、江戸時代、明治、大正、戦前にかけての色々な時代の
建物500以上が残っている。年間350万人の観光客が訪れ、
美しく、懐かしい雰囲気。倉敷は、空襲を免れた。
どうして美しい町並みが生まれ、どのようにして残ってきたのか。
タモリさんが歩きながら、現地の人の案内で解き明かす。
★「倉敷」という地名は、「倉敷地」を略したもの。
「倉敷地」とは、各地の荘園から年貢などを輸送する際に
一時保管する倉庫が置かれた所。
倉敷は、岡山県南部にあり、
江戸時代には、幕領60万石の代官所が置かれていた。
倉敷は、物資が集まる場所だったため、たくさんの蔵があり、
川を使って運ばれた。
★「倉敷川」 別名「汐入川」とも。
物資の輸送に使われたこの川は、海につながっている運河。
江戸時代から、川を使って江戸や大阪に繋がり栄え、多くの
豪商が生まれた。豪商は、商売以外のやり方で富を増やしていった。
★「森田酒造場」という豪商の家に行ってみる。
森田家が酒造業を始めたのは、明治42年から。その前は、「畳表」の
問屋だったが、別のもので富を得た。それは「米」。
「米」は、倉敷川を下って瀬戸内海に出て、船で大阪の堂島へ運び、
取引をした。江戸時代は、米の取引が出来るのは認可を受けた米問屋
だけだった。なぜ畳表の商人が大量の米を入手できたか。
豪商たちは、たくさんの土地を持っている地主だった。たくさんの米を
手に入れ、富を得て、蔵を建てた。・・美しい町並みに。
★なぜ倉敷では、商家が地主になれたのか。
蔵の立ち並ぶ地は、戦国時代以前は、見渡す限り海だった。商人たちは、
お金を出して遠浅の海を埋め立てて、陸地にし、地主となった。
★なぜ倉敷の商人は、自由に新田開発ができたのか。以前あった紡績工場へ
行ってみる。堀や塀に囲まれ、御城のよう。江戸時代天領だった「代官所」跡。
代官所のある町は、城下町より自由だった。規模が大きくなく、武士も
少ないので、町人の力を借りないと、支配出来なかった。商人の力を借りる為、
商売を規制せずに自由に活動をすることを許した。このため、新田開発ができた。
★明治時代に、ここに紡績工場ができた。この工場ができたことが、
美しい町並みに大きく関わっている。
埋め立てられた土地は、塩害があり、綿花の栽培が行われた。(綿花は、塩を
吸い取るという。干拓地では、始めに植えられることが多い)。
こうして紡績業が盛んになった。
明治22年(128年前)の工場は、最先端のイギリスの技術を導入。何もかも
イギリス式。壁の煉瓦もイギリス積み。工場のノコギリ屋根もイギリス式。
ただし、屋根の角度はイギリス式では、夏直射日光が入り高温になるので、
それを防ぐためツタをはわせた。装飾と、断熱効果が抜群となり、美しい
町並みになった。
紡績業の発展で、数々の西洋建築が建てられ、町に新たな魅力が生まれた。
明治以降、14棟もできた。その極め付けが倉敷美観地区のシンボル
★「大原美術館の本館」
ギリシャ式で、昭和5年に造られた日本で最初の西洋美術館。
倉敷を代表する資産家、豪商、事業家の、大原孫三郎(1880~1943)が、
建てた。故郷を文化の町にする強い思いがあった。
こうして、江戸時代の蔵と、明治以後の近代的な洋館とが隣り合う
美しい町並みが完成した。
★この町並みがなぜ、今も残っているのか。
大原孫三郎の長男・総一郎が、昭和36年大原美術館分館を建てた。
大原美術館分館は、美観地区の端の位置にあり、周囲を城郭のような壁に
造り、鶴形山を天守閣に見立てると、城下町のような風情となっている。
この古い町並みを守るという意気込みを市民たちも受け継ぎ、
昭和43年「倉敷市伝統美観保存条例」を制定。
「美しい町並みは、残ったのではなく、残した」ものであった。
※倉敷と言えば、大原美術館を始めとして、美しい町並みが思い浮かぶ
が、それらは、人々の強い思いが守っていることが分かった。
最近、あちこちで御城や古い町並みを再建し、タイムスリップしたような
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2017-06-07 18:27
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