ブラタモリ#73尾道「なぜ人は尾道に魅せられるのか」
いろいろな小説や映画の舞台になっている尾道。
海沿いの小さな町に、観光客が年間670万人が訪れる。
尾道には、魅力が3つある。
○古い寺や神社
○川のような海・尾道水道
○坂道の家や路地
これらが、レトロな雰囲気を醸し出している。
※古い寺や神社がたくさんあるのは、なぜか。
★千光寺・・坂道を登り、尾道で最も多く観光客がやってくる。
境内のあちこちに大きな岩がある。巨岩「玉の岩」と呼ばれる上には
丸い玉が乗っている。昔は自然に光る玉があって、夜毎に尾道の町を
明るく照らしていた。千年も千里もその玉が光るように「千光寺」と
名付けられた。残念ながら、玉は盗まれてしまった。
境内のあちこちにある巨岩は、元々は、「御神体」として人々に信仰され、
やがて修行の場になった。それが仏教と結びつき、寺が出来た。
★浄土寺・・尾道で一番歴史のある寺
鎌倉時代の建物の配置が残るため、本堂や多宝塔と共に境内全域が国宝。
建物と境内の地面も国宝になっているのは、ここと京都の清水寺だけ。
訪れると、まず境内にいるハト(守り神)に、えさをあげる。
浄土寺の裏門(江戸時代に建てられ、重要文化財)の屋根裏へ上ってみると
壁際にハトの巣があり、たくさんのハトが飼育されていた跡がある。
伝書鳩として活用されていた。
江戸時代尾道には豪商がたくさんいて、大阪でのコメ相場の情報を
得るため、伝書鳩を使っていた。当時は、伝書鳩は禁止されていたが、
商人たちは知恵を働かせて、お寺だったら伝書鳩を使っていると思われない
と、秘密情報基地のようなものだった。
★どうして商人が集まって、いくつものお寺が建てられるような財力が
あったのか。町の中心部へ行ってみると、西国街道(京・大阪への道)が
通っている。そこから出雲への道・出雲街道が伸びている。
出雲と尾道の間には「太田荘」という非常に広い土地や農地があった。
・太田荘(大田庄)・・平安時代末に現在の世羅町一帯に成立した荘園。
文治2年(1186年)、後白河院から高野山に寄進された。
尾道は、大荘園からの作物の積み出し港として商人が集まり、平安時代から
急速に発展した。しかし、平地が少なかった。
★尾道という地名の由来
海側から見ると、山が3つあり、その間に入り江が深く陸に入り込んでいる。
入り江を横断する道が無い。山の尾根筋・山の尾根を歩くしかなかった。
尾根に道がある・尾道になった。
現在の町の中心部は海だった。それを埋め立てた。
★町の中心から海に向かって歩くと、石垣による段差がある。
石垣により護岸を築き、その中を埋め立てていった。江戸時代に石垣を
使って埋め立て、平地を造った。この埋め立てが魅力の一つになっている。
石垣の上の所には、厳島神社という神社もある。
★海沿いへ・・尾道水道
埋め立てにより、川のような海・尾道水道が生まれた。海幅は、対岸まで
200m。一番広くて300mぐらい。
尾道の山側から見るこの景観は、素晴らしい。
★江戸時代には、神聖な場所だった山側には寺や神社以外には建物は
建てられなかった。なぜ、そこに建てられるようになったのか。
厳島神社の方に戻ってくると、八幡神社が上の方にある。神社への参道を
横切って、鉄道と道路が走っている。
尾道に鉄道が開通したのは、明治24年。埋め立てで出来た平地には
たくさんの建物があったため、線路は町の中心を避けるように山際を通し、
大きく曲がっている。鉄道の開通が坂道に家が出来るきっかけとなった。
山の土地は、大体お寺か神社の土地。だから今でも山の家の土地は、
全部借地。
明治時代、鉄道の開通とともに多くの家が山に移動することになった。
こうして、坂道の家と、路地が生まれた。
坂道には、苦労がつきもの。住民たちはそれをものともせず、工夫している。
「2階井戸」というのが、一つの例。坂の上の人と、下にある家のどちらからも
水を汲むことが出来る。上の人はちょっとしたコツがいる。タモリさんも
挑戦したが、始めはうまくいかず、コツを教わってようやく汲めた。
※尾道は、山の上からも、海に近い下からも素晴らしい眺め。
きつい坂は、開発が進まず、レトロな雰囲気をつくり出し、
それが今の人たちの郷愁を誘っている。落ち着いてゆるやかに過ごす
生活が流れている。日本の中でも少なくなった場所。
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海沿いの小さな町に、観光客が年間670万人が訪れる。
尾道には、魅力が3つある。
○古い寺や神社
○川のような海・尾道水道
○坂道の家や路地
これらが、レトロな雰囲気を醸し出している。
※古い寺や神社がたくさんあるのは、なぜか。
★千光寺・・坂道を登り、尾道で最も多く観光客がやってくる。
境内のあちこちに大きな岩がある。巨岩「玉の岩」と呼ばれる上には
丸い玉が乗っている。昔は自然に光る玉があって、夜毎に尾道の町を
明るく照らしていた。千年も千里もその玉が光るように「千光寺」と
名付けられた。残念ながら、玉は盗まれてしまった。
境内のあちこちにある巨岩は、元々は、「御神体」として人々に信仰され、
やがて修行の場になった。それが仏教と結びつき、寺が出来た。
★浄土寺・・尾道で一番歴史のある寺
鎌倉時代の建物の配置が残るため、本堂や多宝塔と共に境内全域が国宝。
建物と境内の地面も国宝になっているのは、ここと京都の清水寺だけ。
訪れると、まず境内にいるハト(守り神)に、えさをあげる。
浄土寺の裏門(江戸時代に建てられ、重要文化財)の屋根裏へ上ってみると
壁際にハトの巣があり、たくさんのハトが飼育されていた跡がある。
伝書鳩として活用されていた。
江戸時代尾道には豪商がたくさんいて、大阪でのコメ相場の情報を
得るため、伝書鳩を使っていた。当時は、伝書鳩は禁止されていたが、
商人たちは知恵を働かせて、お寺だったら伝書鳩を使っていると思われない
と、秘密情報基地のようなものだった。
★どうして商人が集まって、いくつものお寺が建てられるような財力が
あったのか。町の中心部へ行ってみると、西国街道(京・大阪への道)が
通っている。そこから出雲への道・出雲街道が伸びている。
出雲と尾道の間には「太田荘」という非常に広い土地や農地があった。
・太田荘(大田庄)・・平安時代末に現在の世羅町一帯に成立した荘園。
文治2年(1186年)、後白河院から高野山に寄進された。
尾道は、大荘園からの作物の積み出し港として商人が集まり、平安時代から
急速に発展した。しかし、平地が少なかった。
★尾道という地名の由来
海側から見ると、山が3つあり、その間に入り江が深く陸に入り込んでいる。
入り江を横断する道が無い。山の尾根筋・山の尾根を歩くしかなかった。
尾根に道がある・尾道になった。
現在の町の中心部は海だった。それを埋め立てた。
★町の中心から海に向かって歩くと、石垣による段差がある。
石垣により護岸を築き、その中を埋め立てていった。江戸時代に石垣を
使って埋め立て、平地を造った。この埋め立てが魅力の一つになっている。
石垣の上の所には、厳島神社という神社もある。
★海沿いへ・・尾道水道
埋め立てにより、川のような海・尾道水道が生まれた。海幅は、対岸まで
200m。一番広くて300mぐらい。
尾道の山側から見るこの景観は、素晴らしい。
★江戸時代には、神聖な場所だった山側には寺や神社以外には建物は
建てられなかった。なぜ、そこに建てられるようになったのか。
厳島神社の方に戻ってくると、八幡神社が上の方にある。神社への参道を
横切って、鉄道と道路が走っている。
尾道に鉄道が開通したのは、明治24年。埋め立てで出来た平地には
たくさんの建物があったため、線路は町の中心を避けるように山際を通し、
大きく曲がっている。鉄道の開通が坂道に家が出来るきっかけとなった。
山の土地は、大体お寺か神社の土地。だから今でも山の家の土地は、
全部借地。
明治時代、鉄道の開通とともに多くの家が山に移動することになった。
こうして、坂道の家と、路地が生まれた。
坂道には、苦労がつきもの。住民たちはそれをものともせず、工夫している。
「2階井戸」というのが、一つの例。坂の上の人と、下にある家のどちらからも
水を汲むことが出来る。上の人はちょっとしたコツがいる。タモリさんも
挑戦したが、始めはうまくいかず、コツを教わってようやく汲めた。
※尾道は、山の上からも、海に近い下からも素晴らしい眺め。
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2017-05-22 17:06
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