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ブラタモリ#65神戸の街「神戸は、なぜ”ハイカラ”なのか?」

”ハイカラ”の意味は、ハイカラー(襟の高いシャツ)。

襟の高いシャツがしゃれていたので、ハイカラと言われるようになった。

また、神戸のハイカラは、西洋の文化と日本の文化が混ざった街ということ。

六甲山地の麓にある神戸市北野。たくさんの異人館が立ち並び、

年間100万人の観光客が訪れる。

神戸は、どうしてハイカラになったのか。北野へ行ってみる。

北野に異人館が立ち並ぶようになったのは、150年前の神戸の開港

であった。異人館の出来る以前の北野はどのようになっていたのだろうか。




★北野天満神社

平安時代の終わりに、平清盛が建てたと伝えられている。神社の横には

池があったが、水を抜いて異人館が建てられた。池は、農業用のため池で

付近は、段々畑になっていた。

★本来外国人は、外国人居留地に住むはずなのだが、北野は雑居地で、

外国人が日本人の住む街に住むことを許された街。

神戸では、北野だけでなく、かなり広い地域が雑居地として認められた。

★なぜ、神戸に大きな雑居地があるのか。

かつての居留地に行ってみると、昔使われていた番地が残っている。

番地は、バラバラにつけられている。

横浜や長崎は、1859年に開港したが、神戸は、1868年に開港。

京都に近かったので、朝廷からの勅許がなかなか下りなかった。

1867年に勅許が下りたが、幕末の動乱期(徳川家が政権を返上)で、

居留地の土地の造成をしている場合ではなかった。居留地づくりが

間に合わなかったため、造成しやすい土地に引き渡した。開港時に

外国人が住む土地が無かったため、雑居地が認められる結果となった。

このため、番地もバラバラになっている。

日本人と外国人が同じ地域に住むようになった。

★神戸の地形を見てみる。

雑居地の北には六甲山地があり、東と西は川、南は海があり、それを境界

にした。つまり、自然の地形を利用して囲まれていた。これが神戸に

広大な雑居地を認めた理由となった。






★開港前は、兵庫津が中心であったが、現在は、北野が中心になっている。

神戸と兵庫津の境には、湊川という天井川(周囲より、高い土手があり、

その上を川が流れている)が流れていた。天井川が壁となって分断していた。

明治の中頃になると、外国人への警戒感が薄れてきて、両方の町の発展に

邪魔になってきた。

明治30年から4年をかけて、市街地を避けるように湊川を付け替えた。

高い土手も段々削って下げていき、周りとの高低差がなくなった。

明治38年、段差の無くなった所に神戸と兵庫津をつなぐ大きな通りを

造り、神戸と兵庫津が一つになった。

川のあった所に「新開地」という街が出来、神戸一番の歓楽街が出来た。

新開地は、ハイカラ発展の舞台となり、昭和の始めには、1キロの商店街に

24の映画館や劇場があり、年間400万人が訪れた。

東の浅草、西の新開地と言われ、最先端のハイカラ文化の発信地となった。

★日本のスイーツの歴史を変えた。

・神戸発祥のお菓子「瓦せんべい」は、明治6年に考案された「紅梅やき」

 というお菓子が元になっている。紅梅やきは、小麦粉と水、砂糖が少し

 だけ入っており、とても固いが、これにたっぷりの砂糖と、卵を加えて

 出来たのが、瓦せんべいで、食べやすく、おいしくなった。外国人が

 住むようになり、砂糖や、卵が手に入りやすくなった。見た目は、和風、

 材料は洋風、和と洋が入り混じったところが、瓦せんべいがハイカラと

 言われる由縁。

・明治時代に製粉工場が出来、工業化が進み、良質な小麦粉が生産される

 ようになり、ケーキ、クッキーなど小麦粉を使う菓子店が生まれ、全国に

 進出。洋菓子文化が、神戸から広まった。 

★神戸と兵庫津が一つになるのに不可欠なものが「湊川遂道」がある。

明治34年から平成12年まで、湊川の水路として使われたトンネルで、

川の流れを迂回させた。


※明治に開港した横浜、長崎、函館とも違う雰囲気がある、ハイカラな

街・神戸。やはり、雑居地が認められたからではないかと思う。


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