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ブラタモリ#63別府「巨大温泉都市・別府はどうできたか」

別府八湯と呼ばれ、八つの温泉地がある巨大温泉都市・別府。

前回(#62別府温泉)では、温泉の出る仕組みを見てきたが、

今回は、別府の町がどのようにして発展したかについて解き明かしていく。

別府は、温泉資源があり、娯楽施設がある、そう言ったものが町全体に

広がっている温泉巨大都市。

江戸時代は、海岸沿いの小さな村だった。別府八湯は、それぞれ別の村に

あった。当時は、別府の隣の浜脇エリアの方が知られていた。

今では、年間800万人以上が訪れる日本を代表する温泉地だが、

江戸時代にはそれほど有名ではなかった。




なぜ、別府は巨大温泉地になったのか。

★海岸近くの別府村に、明治4年海岸に大きな船が止められる近代的な

港が完成した。これにより、温泉を楽しむため遠くから客が来るようになり、

海岸沿いには旅館や、共同温泉が造られるようになった。

★港が完成した2年後、明治6年、大阪との定期航路が誕生し、関西と直接

繋がった別府村は急速に発展。

明治39年には、江戸時代一番賑わっていた隣の浜脇村と合併し、町の名前は

「別府町」とした。

港の周りには珍しい光景が広がっていき、港の砂地は、どこを掘っても湯が

湧きでて、「砂湯」(砂蒸し風呂)を楽しんだ。

★港から山に向かっておよそ1キロ、現在の別府の中心地に来てみる。

明治43年から始まった「市区改正事業」によって真っすぐな道が通っている。

海岸沿いには多くの旅館(300軒)があったが、さらに街を拡大するために

碁盤の目の様な道を造り、市街地を整備した。別府は、海側から山側へと街を

拡大した。

★街を整備したが、曲がりくねった古い道が残っている。そこはかつて「流れ川」

という川が流れており、今は暗渠になっている。この川は湯の川で、掘れば

温泉が湧き出てきたので、各家に温泉があった。明治時代に街造りを整備する時、

一番賑わっていた流れ川沿いに真っすぐな道を通して「流れ川通り」と名付けた。



★流れ川通りの突き当りには遊園地(ラクテンチ)が造られている。

ここは、明治36年から大正5年まで「別府金山」があり、金や銀を産出して

いた跡地に造られたもの。最盛期には、200人以上の人が働いていたが、

高温の温泉が出て、閉山されたという。別の利用方法を考え、遊園地を造った。

このほかにも様々な娯楽施設が造られ、「少女歌劇団」の舞台、別府大仏(24m)

がある。

★昭和10年、別府町は、周りの村と合併し、別府市になった。

別府には、様々な温泉を楽しめるエリアがある。

湯治・・「鉄輪エリア」では、湯治客が自分で調理をするために「地獄蒸し」

    と呼ばれる施設がある。蒸した野菜や肉などは、極楽の味がするという。
 
地獄と呼ばれる名所・・高温の湯が湧きだす観光名所

湯の花がとれるエリア

美しい眺めが楽しめるエリア

これら八つの温泉地の魅力を一つにした、大合併が行われ、巨大温泉都市が

誕生した。


一口に別府温泉と言っても、様々な温泉と楽しみ方があると言うことを知った。

いかにも湯の町で、あちらこちらから湯が湧きでるという地の利を生かして

大温泉都市にしていったのだと言うことが良く分かった。

大きな街が生まれる始まりは、何と言っても交通の便である。現在でもそれは

変わらない。新幹線が通れば、ある所は発展し、ある所は在来線が廃止され、

不便になる。街の整備は難しい。

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